【昔ダッチワイフ】 ラブドールの長い歴史
『ロマンスドール』から見よう
ラブドールの歴史を理解するまえに、まずは高橋一生が出演する映画『ロマンスドール』から始めましょう。
ラブドール工場に先輩の紹介で現れた哲雄が、熟練工の相川金次の仕事への情熱にほだされ、この仕事にのめり込む。そして、医療用人工乳房のモデルとだまされて訪れた園子と出会い、忘れ物の安物のピアスを持って駅まで追いかけて一目惚れし、結婚するまでの流れです。しかし、胃ガンで手術をするので園子が急に離婚を切り出します。哲雄は亡くなる妻にそっくりのドールを丹精込めて造り上げ、そこに魂を宿らせるんだと打ち込みます。
このように、リアルドールがより洗練され、人気を博し、絶滅の危機に躓くことがなかったのは、愛があったからかもしれませんね。
全く架空の映画ではない
正直いえば、これは全く架空の映画ではありません。
「マン・レイは、シュルレアリスムがこれらの作品にエロティシズムを吹き込んだだけでなく、マネキンを個人的に「暴力」したと主張したことがある」。ダッチワイフとして作られたマネキンではないが、実際にはどうでしょうな。
1918年、画家のオスカー・ココシュカは、一生の恋人であったアルマ・マーラーと別れたことは注目を集めました。もう二度と恋愛はしたくないと考えた彼は、hのための最初のカスタムドールを依頼し、妻の古いお針子さんに服まで作らせました。彼はそのラブドールに何枚もの絵やドローイングさえ描きました。そして、最後はアルマを忘れようとドールを壊してしまいました。
遠い昔からのストーリー
古代ギリシャでは、男性が彫刻に恋をした例がいくつか史料に残っています。プラクシテレスは初めてフルサイズの裸婦像を彫刻し、彼の最も有名な像はクニドゥスのアフロディテでした。この像を見て驚いたある青年は、脚に射精して汚してしまったと言われているほどです。ピグマリオンの神話を生んだ文化圏では、特に衝撃的なことではなかったのでしょう。
紀元3世紀、アテナイオスは、セリンブリアのある男がアフロディテの像に恋をして、一人の時間を得るために彼女の神殿に閉じこもったと記しています。しかし、彼はその石が少し冷たく、弾力性に欠けることに気づき、少し悩んだということです。
1500年代の長い航海の時代になると、女性との交際を切望していた船乗りは、布や革で作った人形を作りました。フランス人はこれを「ダム・ド・ボヤージュ」と呼び、イギリス人はこれを使うオランダ人船乗りにちなんで「ダッチ・ワイフ」と呼んでいました。
18世紀、オランダの船乗りたちが日本人と人形を交換したことから、日本では今でも「ダッチワイフ」という言葉が使われています。この後まもなく、E・T・A・ホフマンは、女性との恋をあきらめ、自動人形に恋をする少年を描いた作品「サンドマン」を書き上げました。1930年代にはこの作品を見た画家のハンス・ベルマーは、インスピレーションを受け、ボールジョイントが動くエロティックな人形を作り始めました。
1900年代初頭のことです。ドールが大量生産されるようになりました。1904年頃からフランスのカタログに掲載されるようになり、新たに発見されたプラスチックをゴムと併用することで、よりリアルな人形が作られるようになりました。この人形は、初めて生殖器を再現したもので、膣を潤滑するためのオイルチューブまで付いていました。
1970年代、ビニールを膨らせた空気ラブドールが出ています。空気を入れて膨らますことで人間のような形状を作り、性的な娯楽を提供します。性行為以外の目的で使用することもできますが、一般的には性的な娯楽を提供するために使用されます。
1990年代、今のラブドールと同じようなシリコンドールが出ています。リアルな肌触りや陰部の再現など、よりリアルな体験を提供するためにデザインされています。hだけでなく、観賞と撮影にも使われています。